信仰の体験談

『神に出会った無神論者』  教会員 櫻木 茂伸

 

 大学時代、ニーチェやサルトルの無神論に傾倒していた私は、結婚数年後、商売に失敗し、大阪に出て就職する傍ら、市民合唱団に入り、メサイアなどを歌って一人で楽しんでいました。

 

その後生駒に移り住み、ある年の十一月、「訳も分からずメサイアやレクイエムを歌ってないで中身を学んでみたら?」と言う妻の言葉に、社会見学のつもりで、妻の知人が行っている教会に家族五人で出かけ、クリスマス迄通い続けました。

 

翌年三月に特別講演会の案内状が届きました。講演会の最初の日、合唱団の練習が急に休みになったので教会に立ち寄り、講師の方が結核で死を前にして、貰った聖書を読み、聖書の言葉から信仰に導かれた話を聞いて、再び礼拝に出席し始めました。


 五月のある日、高さ五mのタンク上で機械の修理を終えた時、太いロープがモーターに巻きついて突然身体が後に引っ張られ、宙に浮き上がるという事故に遭いました。

 予期せず襲った死の恐怖に、「神様」と心の中で叫んでいました。気がつくと、ロープがぷっつりと切れてタンクの上で助かっていました。「人はどうせ一度は死ぬもの。死ぬことなんて怖く無い。」と言っていた私が、死の恐怖に喉は干乾び、一時間たっても身体が震えていました。

 

 数日後、通勤途中に毎日同じ鼻歌を歌っている事に気づき、夜家に帰ってメサイアの曲の歌詞を調べると、「さあ彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を解き捨てよう。」と書いてありました。その時になってやっと、太いロープが切れたのは、散々重ねてきた私の罪の綱は、切れたロープの何十倍も太いが、イエス・キリストの十字架を信じれば神様には簡単に切り離せる事を見せて下さったのだと分かりました。 

 

 私は「参りました。もう神はいないと言えません。」と全面降伏をして、同じ一九八一年十二月に夫婦揃って洗礼を受けました。不思議にも、翌年の正月には、三〇年以上も飲み続けてきた酒が欲しく無くなり、秋には新たな仕事が与えられました。

 その後、妻が重病で入院した時にも、仕事中の度重なる危険の中でも、神様は私達の信頼を裏切る事なく、この三〇年間守られ、素晴らしい恵みの日々を過ごさせて下さっています。 

 


『苦しみから得たこと』  教会員 仁木裕美子

 

 私の夫は、長男が生後二か月の時、二七歳で癌で亡くなりました。

 

奈落の底で私は問い続けました。「何故こんな事がこの私に起きるのか」

答えは見つからないまま子供を母に預け働き出しましたが、その母も癌で失いました。

理不尽だと、不条理だと、私はもがき苛立ちながら生きていました。

 

ある日の朝、子供が私を見上げて言いました。「お母さん、笑ってよ。」

私はその場に凍りつきました。この子の前で私は一体どんな顔をしているのだろう。

 

この子を思いやりのあるよい子に育てたい、そう思う私の心にあるものと言えば、怒り、妬み、不満、自己憐憫。

こんな思いを持ちつつ子育てはできないと思いました。変らねば、でもできませんでした。

 

自分との絶望的な戦いに疲れ果てた頃、クリスチャンである義姉から聖書を読む会に誘われました。

そこで私は衝撃的な言葉に出会いました。深い絶望と悲しみの象徴である墓の前で、

イエス・キリストが 「その石をとりのけなさい」 とおっしゃったのです。

私の中には大きな石がありました。教会へ行き、それが 「罪」というものである事を知りました。

 

その罪を赦すために既に大きな犠牲が払われている事、つまり神のひとり子イエス様が十字架にかかって死んで下さった事を聞いたのです。

 

私はイエス・キリストの十字架の死が紛れもなく私の罪のためであったと認めて、

私の罪を言い表し、父なる神からの赦しの宣言を受け取りました。

深い闇から解放されて私は心穏やかに子供に向き合う事ができるようになりました。

それ以来一番感謝な事は、何事があろうとも生きる上での基軸が定まった事です。


三年前クモ膜下出血で倒れ、多くの困難、弱さがありますが、それを契機に、一緒に暮らしている八八歳の父と、しばらく教会から遠ざかっていた三〇歳の息子がクリスチャンになり、聖書を基準とした価値観を共有できる日々を感謝しています。

 

夫を失わずにイエス様に出会いたかった。でもそこを通過しなければ私は醜い自己の本質に気付かない者でした。

 

聖書のみことば通り、「苦しみにあった事は幸いでした」 と、心からそう思います。